偶然と必然の間にあるシャッターチャンスについて

愛犬との生活
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みんなが知っている誰かが、写真について「あたしが古くなるじゃない」って言ったのは、そういうことなんだと思う。

写真を撮るのが好きです。写真は、その瞬間を切り取るので、別の瞬間になったときに後からその瞬間を見れるので、とても気に入っている。

偶然ということについて

写真は、偶然の産物である。特に動物を取る場合は、尚更である。

その瞬間瞬間を切り取るのだから、偶然以外の何物でもないと思う。

そして、さらに今日はうちのVIVIとミルを撮影するということを中心にその偶然性について考えてみたい。

偶然という瞬間にシャッターを押すという偶然

散歩の最中は、シャッターチャンスを狙っていつもカメラを持つようにしている。

しかし、シャッターチャンスを狙っていると、散歩がままならない。

犬なので、拾い食いはするし、他のところのにおいを嗅ぎたがったりもするので、散歩に集中していないと何をするかわからない。

夜のミルは、木の枝を咥えているのは、それなりの頻度である。

そんな状況において、カメラを構えて撮影すること自体難しい。

偶然性を偶然ではないものへ

カメラで撮影することすら難しい状況から、その困難を乗り越えた状況へと向かうためには、準備が必要である。

綿密とまでは言わないまでも、ある程度状況でこういう風にするという準備が必要である。

具体的に言うと、朝日を受けたあの交差点の前で座らせれば、丁度良い具合に光が差し込むだろうから、その状況になるように散歩するのである。

つまり、偶然性をできる限り偶然ではないものへと仕向けて行くわけである。

必然ということについて

動物が絡んでいる時点で、完全なる必然という表現は使いにくい。

ある程度の偶然性をはらんだ中での必然性と言えると思う。

偶然から必然へ

偶然から必然に変えるもの、それは、準備と経験である。

こういう風に準備をして、こういう風にすればこんな感じの写真が撮れる。

その感覚を散歩中常に持ち合わせている。

丁度それは、たまたま蹴ったサッカーボールがバスケットゴールに入るようなものだ。

蹴るという偶然の行為が、あたかもそこに収まっていたかのようにバスケットゴールに吸い込まれる。

そのような偶然から必然への移動を写真は携えているのではないのだろうか。

必然性に宿る偶然性

必然性。あたかもそこにあるように収まっているという必然性は、決して偶然性の枠を超えない。

PAPAがどんなに必然性として、準備し、経験したとしても最高の写真、その瞬間をとらえるということは、偶然性である。

その必然性と偶然性の中にしか、その瞬間を切り取った写真は生まれない。

でも、だからこそ、何度も、何度も写真を撮り続ける。

一枚の偶然の一枚を追い求めて。

今日の最高の一枚。

まとめ

できる限り必然性を持った上で、偶然を切り取ることが写真である。

そういった写真がPAPAは好きだ。

そういうことです。

今日もいい写真が撮れました。

VIVI,ミル、MAMA,お姉ちゃん、お兄ちゃん、その他関係者各位に感謝。

それではまた明日。

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